コドモ、6歳になりました。
前回、サザエさんをめぐるオットとの会話で、
心理学の1理論である、交流分析(精神科医エリック・バーンによる)の
ことを思い出したと書いたのですが、
コドモが6歳になったということでも、
1つ思い出したことがありました。
人生脚本とは
交流分析の中に、人生脚本という考えがあります。
その、人生脚本をいったん書きあげるのが、
だいたい6~7~10歳位としています。
周囲(両親など)の影響を受けて、
子供自身が少ない経験の中で、子供なりに一生懸命考え、
書き上げるとされています。
いろいろなパターンがあるのですが、
例えば、
①「お前なんか生まれてこなければよかった」
②「口答えするな。親の言う通りにしていればいいんだ」
③「男(女)の子が欲しかった。女(男)は損」
④「お前には無理だよ。できっこない」などと言われて育った子は、
その子の性質・受け取り方にもよりますが、それぞれ
①「私は存在してはいけない」
②「私は自分で考えてはいけない」
③「私は女(男)であってはいけない」
④「私は成功してはいけない」
と、心に刻み、その後の人生の脚本をそのように書くかもしれません。
他に、
⑤「完璧であれ!」
⑥「人の為に生きよ!」
⑦「努力せよ!」
⑧「強くあれ!」
といった一見よいような内容でも、度を過ぎたり、
子供の受け取りようによっては、
そうでない自分はダメなのか、という風になったり、
必要以上に自分に負荷をかけるようになったりする場合もあります。
他にも発する側と受け取る側によって、
いろいろなメッセージ、脚本が考えられます。
マイナスな感じのものばかり書きましたが、
もちろん、いいものもあります。
「私は、自分の思う通りの人生を送っていい」 とか?、ですかね。^^
そこも考える余地がありそうです。
ワタシの人生脚本的なもので思い当たること
ワタシは、と言えば、例えば、③っぽい内容で、
父が母に「だから女はダメなんだ」と言っているのをよく聞いた覚えがありました。
他にも、兄がいて、「2人兄妹なのに、お手伝いを頼まれるのはワタシだけ」
という状況にも、怒っていました。
でも、その事が、後の、自分の人生に大きな影響を与えたとか、
そのせいで生きづらくなったというような印象は、
自分ではあまり感じていません。
状況がそこまで、ひどくはなかったのか、
ワタシには、父に反発するだけのエネルギーがあった?から?なのか、
よくわかりませんが。
ワタシが、自分で、
ちょっと生きづらくなるような人生脚本的なものを
書いちゃったのかな~と思うのは、
ここも父とのやりとりですが、
「うちは放任主義だからね」とワタシが言った時に、
「放任主義じゃない!」と、ものすごい勢いで怒られた時のことです。
当時のワタシとしては、
「放任」というのを悪い意味で使ったわけではなく、
「子供を信頼してるから、任せてる」というような、よい意味で使っていた
(子供で未熟なので、悪い意味にとられるなんて考えてなかった、
または悪い意味自体を知らなかったと思われる)のですが、
父は、「放任」=「ほったらかし」と悪く捉えたようで、
ものすごく怒られました。
「放任」という言葉を知ってる程度には年齢がいっていると思いますが、
「放任」という言葉を使った意図を細かく説明できるような年齢ではなく、
それでも、「それはどういう意味か?」と普通に聞かれれば、
少しは説明できたかもしれないのに、
とにかく頭ごなしに怒られて怖かった記憶しかありません。
その時、
「思ったことを迂闊に話すと、ロクなことがない」と学びました。
その1件だけじゃなく、多分父とはいろいろあったと思います。
幼いワタシが観たかった『熱中時代』というTVドラマを
「下らない」との一言で否定されたり、だとか。
その後、いろいろ体験したりしているので、
父との関係だけが原因ではない、とも自覚していますが、
口にしようとした言葉を、いったん飲み込んで、
結局そのまま言えずに終わってしまう場面が多くなっていきました。
自然な会話や、逆に沈黙などに、苦手意識を持つようになりました。
話す前にあれこれ考えるようにもなったという意味では、
少しは気遣いのできる人間になった部分もあるかも?なので、
一概に、悪い面ばかりとも言えませんが。
以前、「気を遣ってる割に、気遣いが下手」って、
オットに言われたんですけどね。苦笑しかできませんでした。^^
思ったことをストレートに自然に話してる感じで、
かつ、人を不快にさせない会話を楽しくできる人に、ものすごく憧れます。
そういうことがあり、
コドモには、よい(具体的に何がよい、とは言えませんが)脚本を
書いてほしいなと思いつつ接してきましたが、
う~ん、どんな脚本を書いたかなぁ? と思います。
という風に思いながら子育てできたのは、父とのことがあったから、
と考えると、これまた、よかった面もありますか?どうでしょうか・・・。
父の名誉?の為に
父の名誉?の為に。^^
もう他界しています。
まさか、こんな事をブログに書かれるなんて、
思ってもいなさそう。^^
父がワタシを愛情をもって育ててくれたことは間違いありません。
そこは疑ってません。
父としては、父なりの気持ちで子育てしていたつもりだったのに、
「ほったらかし」と言われたように感じて、
怒ったのかなぁ? と今なら考えられます。
「放任」って、そういう意味もあるから。
または、その場で、
「あぁ、そういう意味じゃなくて、
子供を信頼して、任せて育ててくれてるっていう意味。
ありがたいと思ってるんだよ」とか返せたかもしれません。
今、書いてて、なんだか温かい気持ちになってきました・・・。
でも、当時のワタシにはちょっと怖かった・・・。
「放任」の話は、そんな些細なことで?
というエピソードかもしれませんが、
受け取る側によっては、どんなセリフも
強いメッセージになり得るということだろうと思っています。
最近、HSP(敏感な気質)というのも聞きます。
あまり気を遣うのも、接するほうが疲れちゃうかもしれませんが、
逆に、そういうかたは、
愛情や優しさなど、プラスの感情も、
ものすごく敏感に受け取って下さるんじゃないかな、と思っています。
推測ですが。
最後に
子供だった自分が、子供なりの必死さで、
どんな人生脚本を書いちゃっていても、
それは、自分で、書き換えも可能です。
という立場を、交流分析はとっていると理解しています。
ワタシが交流分析の考え方を割と好きな最大の理由です。
(人にああだこうだ分析されるのは、ワタシは好みません。
自分や育ち方を評価されているみたいに感じるので。
強い自己肯定感があれば、もしかして、
どう評価されても平気なのかな?)
と言っても、受け取ったメッセージが強過ぎる場合、
自分だけで書き換えるのは、
相当にしんどいのだろうな、とも想像します。
どうか信頼できる人が身近にいらっしゃいますように。
そして、こういう話は、あんまり考え過ぎても、
子育てしづらくなっちゃいそう(ワタシの感覚です)なので、
適宜、自然体でいきたいところではあります。^^
心理学的にこうだから、こう、という
テクニックとか方法みたいな感じだけで、
親に接してこられたら、自分が子供だったら相当嫌だろうな、
と思うので。
コドモ画。