『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』を読みました。
こちらの本です。池上さんの本が続いています。
コーランの本を読んでみたいな、
とウロウロしていて見つけた本。
以下、印象に残ったところだけ、メモしていこうと思います。
日本の神道
日本の神様は祖先の霊、自然。
神道は寛大な宗教で、教えを統一することがない。
仏教ともごく自然にまじりあった。
ワタシの中に神様というのがあるとすれば、
まぁ、このイメージかなぁ。
ご先祖様と自然。
仏教
仏教は
〇全てを語り尽くそうとしない。(世界の始まりや終わりについて語らない)
経験則や臨床事例から大きく外れている領域を語ることに慎重。
〇まず、今すべきことをする、という態度。実践的態度を持つ。
輪廻や極楽浄土の話は割愛して・・・。(ワタシがついていけないから)
仏教もいろいろ宗派があるようだから、
詳しくは違う部分もあるのだろうけど
釈徹宗さん(浄土真宗本願寺派如来寺住職)の仏教のメインラインのお話。
釈 仏道は、まず「生きる」ということは、苦である」といった自覚から始まります。ずいぶん悲観的で厭世的な印象を受けますが、この場合の苦とは「思い通りにならない」の意です。生きるということは、思い通りにならない。~略~ 自分の思い通りに現実をコントロールすることなどできない。
そこで、「思い」の方を調える。「思い(執着)」が強ければ強いほど、現実との落差は大きくなります。つまり苦悩が強くなるわけです。身体を調え、思いを調え、言葉を調え、生活を調えるトレーニングを実践することによって、執着を小さくすれば、苦悩も小さくなる。究極的には、執着をなくしてしまえば、苦悩もなくなってしまう地平を目指します。仏教とはそういう宗教です。
『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』池上彰 文春新書 以下同じ
教科書で、仏教の教えとして
生きる=苦、みたいなのは習った記憶があったけど、
改めて、あ、仏教ってそういうことだったんだ! と思った。
最近のミニマリズムみたいなものとも結びつくところがあるなー。
スティーブ・ジョブズさんも確か一時仏教に傾倒してたとか聞いたな~
なんてことも。
より端的に表現して
大乗仏教の理想は「とらわれないこと」です。社会や他者に関わるんだけど、とらわれない。拘泥しない。
「とらわれない」かつ「社会と関わる」の両方というのがミソ、と思った。
仏教では社会を変革させようとするよりも、日常生活の自分の心と体を調える方に重心を置きます。
それは、庶民としては実践しやすい。
釈 仏教の体系は、人類の知恵の結晶なんです。仏教の教えは、経験則や臨床事例や心身のメカニズム、自己分析や他社観察によってできている。だから、仏教者ではなくても、その説かんとするところはかなり納得できるはずです。ある意味で、信じていなくても活用可能な部分があるという、稀有な宗教なんです。
そうなんだ。
釈 そのうえ、釈迦は「私の教えは、川を渡る筏だ」と語っています。川というのは苦悩の人生をあらわし、そこを渡るための筏だというわけです。しかし、ひとたび川を渡ってしまえば筏にはもう用がない。捨てていけ、と釈迦は説く。筏に固執して、向こう岸でも筏をかついでいるやつはおかしい。つまり、究極的に仏教さえも捨てていけといいうことでしょ。すごい話じゃないですか。ちょっとない宗教だと思います。
仏教さえも捨てていけ! はちょっとカッコイイ感じがした。
それでこそ! っていう感じある。
生きる=苦、とするのは
ちょっと言葉が強いと思うし、
(それだけ幸せな時代、国に生まれたってことなんだとも思うけど)
適度な思いやこだわりはあったほうが人生楽しいかも、とも思うけど
他の宗教よりは仏教がワタシにはしっくりくる部分があるかなぁ。
人口増加と宗教
人口爆発で食糧・エネルギーが足りなくなったり
気候危機が加速する、という問題があって
それなのに、何でそんなに人口増えてるの? と考えた時に
そういう宗教があるのかな? と薄々と考えていたら
やっぱりそうらしく。
「産めよ、増やせよ」というのが神の教えの宗教がある。
避妊禁止、中絶禁止、生命尊重など。
カトリックやイスラム教など。
日本はパラダイスだった
『コーラン』には、天国についての描写が何度も登場します。清らかな泉があり、清らかな川が流れていて、涼しい木陰があって、木の実がいっぱいとれて、ブドウが食べ放題、鶏肉が食べ放題、という世界です。
中東の砂漠地方での天国のイメージ。。。
それって日本、まんまあてはまる、と考えた時の驚き!
たとえば中東の砂漠地帯では、人間は本当に無力な存在で、ちょっとした砂嵐に巻き込まれただけで、あっという間に死んでしまいます。大自然の恐ろしさを、ひしひしと感じさせる風土です。それほどに厳しい中でとりあえず生かされているという実感が、人間は神の怒りに触れるとあっけなく死んでしまうという『旧約聖書』の世界と、とても通じ合っています。
土地の気候風土が人間性に影響を与える
みたいな説を聞くことはあったけど、
確かに、砂漠の厳しさを思い浮かべれば、
旧約聖書に出てくる”神”の残酷さも理解できる感じあるな~なんて。
【書籍】池上彰『聖書がわかれば世界が見える』を読みました - 好きに暮らす -now or never-
九州島原の女性たちがキリスト教に入信した理由
母として、心動かされた話。
島原にキリスト教がもたらされた時、
女性たちの崇拝を集めたのはイエスではなく
聖母マリアだったという話で。
山形 九州島原の女性たちのキリスト教への入信の動機に、貧困の故に子どもを間引かねばならない言葉にならない悲しみがあった、と言われています。その悲しみを受け止めてくれる存在として、聖母マリアの中に「悲母観音」をみたのではないでしょうか。
※悲母観音=苦しみを取り除く観音様
※山形=山形孝夫さん(宮城学院女子大学名誉教授)
母として、ちょっとわかる気がした。
実の祖母も生前、それなりに信心深くて
それなりの値段の仏壇買ったりしてて、
当時、孫として傍から見つつ
そんなもんなのかな、くらいにしか思っていなかったけど、
夫が戦死して、3人子ども生んでも2人は小さいうちに死んじゃって
残った子ども(=ワタシの実父)はまだ2歳で、
ツラいことたくさんあって、
なかなか助けてくれる人もいなくて
阿弥陀様に救いを求めた人生だったのかな~って
今となったら思う。
今、さほど宗教を必要としていない自分は
幸せなんだろうな~というのと
この日本の寛大さはなかなかの魅力なんじゃないかな、
ということを思いました。