昨年末、職場の話の流れで、
「来年(度)はお子さんに学童に行ってもらって・・・
サツキさんには勤務時間を延ばしてもらって・・・」
というような話になりました。
とてもよいかたで、全然圧を感じるような言いかたではありません。
有難いお話でもあります。
現在小3コドモは、
元々、家が好きな子で
学童は嫌がったので、当初から申し込みませんでした。
入学当時はコロナで全国一斉の臨時休校であったりもした。
学童なしでもOKな範囲でワタシは仕事をしています。
長期休暇中は、最初はワタシも完全に休暇、というのから始めて
小2の冬休みから、多少コドモに留守番をお願いする、
という形で少しずつ勤務時間を増やしてきています。
【小2】留守番時間延長! - 好きに暮らす -now or never-
冒頭の上司の言葉に
「学童はむしろ卒業の年代になるので
後は、鍵っ子ができるかどうかなんですよね。
今、(コドモは)小3で、小3でだって、できる子はできるから・・・」
と返したら、また別のかたから
「うちは小1から鍵っ子!」
そのかたもよいかたで、単に事実を話したのだと思います。
一瞬、自分勝手に言外の意味を補ってしまって(苦笑)
小3で鍵っ子デビューさせてない自分が甘いのか、とか
ワタシの仕事に対する熱量が足りないのか、
とか、頭をよぎりそうになったけど
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確かに、
甘いと言えば甘いし、
熱量が少ないと言うのも事実なのだけど、
でも、
どの段階で鍵っ子デビューさせるかは、
例えば『今時は共働きが普通』という、
何となく、の普通(何が普通かは全く不明だけど^^)との比較ではなく
これまで通り
コドモとワタシ・家族の関係の中で
職場との兼ね合いもあるけど、そういうので決めよう!
と思いました。
まぁ、ワタシがちょっと外出しようとすると
「え~っ」となったり
「ぼくも行く」となったりしてしまうので
そういうのを考えると、も少し先か???
とは言え、1月か2月早々に、か、勤務地が少し変更になるかも、で
そうなると、電車通勤からバス通勤になる可能性大なので
バス、となると道路事情により通勤時間が読みにくくなって
しまうので、否応なしに
少なくとも鍵は持たせざるを得ない状況にはなるかな~。
仕事とコドモという話で思い出した話が。
約3年前の記事で、すっごいイライラしてる話。
新年早々のイライラと決めたこと - 好きに暮らす -now or never-
の中からの引用。
それと自己実現には犠牲がつきものです。「ひとつのことをする」ということは、「あることをしない」ということですから。たとえば、子どもとつきあう時間を大事にしようとすれば、自分のやりたいことをする時間を、ある程度捨てなければならない。そのとき自分が何を犠牲にしているか、できる限り意識するのは、ものすごい大事だと思います。そしてそれこそが自己実現なんだとわかっていることです。でないとわけのわからないイライラがたまってくるんです。 ~中略~
犠牲というと何かマイナスの感じがしますが、その意味をほんとに理解するときは、そこに深い喜びが生じます。意味がわからずに嫌々するときは、不必要に疲れたり、腹が立ったりするものです。「育児のために自分の仕事が犠牲になる」と父親も母親も考え、犠牲の押しつけあいをしていると、腹が立つばかりですが、その意味がわかると、そこに楽しみや喜びを見出せるものです。
こころの子育て[誕生から思春期までの48章]河合隼雄著 朝日新聞社刊
そして、その頃のワタシの気持ち。
でもね、河合先生、その意味をほんとに理解というのが、
ワタシには、まだよくわからないんですよ~と叫びたい。
コドモの成長がものすごく嬉しい、とか、そういうこと?
違うような気もして・・・。
いつか、わかる日がくるんだろうか?
本当は、誰も犠牲になることなく、
あなたも生きるし、私も生きる、が、
いちばん、素敵だと思うんだけど。
現在、ほんとに理解しているかはわからないけど
喜びが生じてくる感じはわかるような気になってきました。
ちょっとうまく言語化できないので、
またいつかできそうだったら書こうと思いますが。
ワタシに外出させてくれないのはまだまだ不満だけど
服とか、ゆーっくりゆーっくり見たりしたいんですよ~。
確実に手はかからないようになってきていて
家にいる間、ワタシにはフリーな時間がかなりあるし
コドモは必ずそのうち大人になるんだし
望まれてる間は
なるべく物理的な意味でそばにいてやろうじゃないか!
という気持ちにもなっている今日この頃なのでした。
オットが一定程度稼いでくれてるからできることであって、有難いことです。
実家は鍵をかける、という概念がない(=鍵をかけない)田舎で、
即ち、『鍵っ子』っていう概念もなかったなー。