という気持ちの結果」を仕事とせよ
2019年2月3日朝日新聞からの引用です。
原文は
専門性という言葉で呼ばれることが多いですが、言い換えて「それがやりたくて仕方がないという気持ちの結果」を仕事とせよ、と僕は伝えたい。誰が何と言おうと没入する興味の核、それに自分が腹落ちしてから仕事を考えて欲しい。 2019年2月3日付け朝日新聞 磯田道史が語る仕事より
耳が痛いです。
この年齢になって、
ワタシはそういう風に仕事ができていないから。
昨日、オットが21:30頃に帰宅して、
「最近、これ位の時間に帰れるようになった。
休みも、月6日までは確実にとれるようになった。
後は有休をもう少し自由に使えるようになったら、まぁまぁ、だな」
といった発言をしていました。
ワタシが、
「そうね。まだまだ、ではあるけど、
以前に比べたら、ワタシ的には、だいぶいい、かな」
と返すと、
「でも、オレ、今の仕事好きじゃないから」
と返ってきて、
「う~ん、そうね。
好きなことで、仕事してほしいけど」
「ま、いいよ」
「〇〇さん(オットの名前)が、今の仕事で幸せなのかってことよねぇ?
〇〇さんの人生というか、生き方として、ね?」
「オレにはサツキちゃん(ワタシの名前)がいるじゃん」
って、最初、意味がわからなかったんですが、
どうやら、ワタシがいればオットは幸せだという意味らしかったです。
ワタシにしてみれば、殺し文句ですね、笑。
ノロケになっちゃって、この記事にはちょっと余計?なエピソードですが、
嬉しい発言ではあったので、書いちゃいました。
でも、やりたい仕事をやってほしいという希望は、ワタシは持っています。
今の会社に勤め始める前は、
オットはやりたい仕事をしていて(自分で天職と言い切ってました)、
でも、コドモができて、その、やりたい仕事では収入が足りなくなって、
今の会社に転職した、という経緯があります。
一方で、タイトルとは相反?しますが、
過去に、めちゃめちゃかっこいいと思った文章がありますので、
かなり長いですが、そのまま引用します。
児童文学で『だれが君を殺したのか』(イリーナ・コルシュノウ作、岩波書店)という本があります。お父さんは若いころ、芸術家になろうと思ってがんばっていた。ところが、自分には芸術的な才能はどうしてもないと思って、あきらめる。そして、電気製品を売る仕事に就いて、一生懸命働いて、妻子を養っているんです。その子どもが青年期になって、どこかで芸術家の作品を見てきて、帰ってきてお父さんにどう言うかといったら「もし、ぼくにあれだけのことができたら、そしたら、電気製品のがらくたなんか持って走りまわったりしないな。」父親にとって、一番痛いことを言う。
そのときのお父さんの答えが、むちゃくちゃカッコいい。
「おれは、おまえの望む父親ではないだろう。理想の父親とか、そんなんじゃないだろうよ、だからといって、おれを傷つけることは許されない。おれがおれ自身にいうのをはばかったこと、それをおまえがいっていいと思うのはまちがいだ。おまえが知りたいのならいうがね、おれは自分自身と戦って、考えぬいたのだ。そして、ある日、はっきりと悟った。おれの才能、その限界。おれの才能は、はたして自分の家族を飢えにさらす価値があるのか、計りにかけ、その価値なしと認めて、真剣な気持ちでパンをかせぐことにとり組んだんだ。さあ、おれは今、静かに食事がしたい」(上田真而子訳)
感激しますわ。このことに関しては何人も触れられない。とこんなふうに言えるのがすごい。何をしたかじゃない、おれはここまで腹が決まっている、と。それを言いだしたら、これはもう絶対もう子どもに負けない。
こころの子育て「誕生から思春期までの48章」河合隼雄著 朝日新聞社刊
やりたくて仕方がないという気持ちの結果を仕事にできたら、
こんなに素敵なことはない。
けれども、たとえ、それはできなくても、
コドモに、ここまで言えたら、
それはそれで充分かな、とも、思えるのでした。